2016.2.11行動【集会基調】安倍戦争国家と天皇制を問う2・11反「紀元節」行動集会基調

1 2・11と右派の動向

日本会議と神社本庁を中心とする右派勢力は、今年もまたこの二月一一日、各地で式典や行動を繰り広げている。

発足直後の「明治」政府は、それまでに積み上げられた史実に対抗して天皇を中心とする新国家の「正統性」を創作するため、記紀神話が歴史的事実であるかのごとき解釈を編み出した。二月一一日を「紀元節」としたこと自体も、諸外国の制度の模倣として、暦計算のつじつま合わせで設けられたものであり、神武に始まる神代「天皇」の存在も含めて、誰もが知るようになんの根拠もない。この「紀元節」は、戦後改革の中で一九四八年に一度は廃されながらも、日本政府は多くの反対を押し切り、これを一九六六年に「建国記念の日」として新たに制定したものなのだ。

そしてその後も日本国家は、天皇制を強化する目的で、祝日法の改定ばかりでなく「元号法」「国旗・国歌法」などを次々と制定してきた。これらの法律は、制定当初にはこれを強制するものではないとしながら、すぐさま天皇制や国家に対する服属を示す重要な儀礼や制度として、公務員や学校にはじまり、社会の成員全体に向けて強要され続けてきたのである。

昨年の戦争法をめぐる闘いは、大きな政府批判のうねりを作った。しかし、「クーデター的」とも批判された、立憲主義を踏みにじる強行突破によって、その法制化に成功したのち、安倍らの自公政権は、議会における圧倒的多数を背景に、さらに明文改憲へと突き進んでいる。こうした政府の意向をうけて、右派勢力は、自民党の改憲案を実現するための動きを、あらゆる方面からさらに活発化させている。

日本会議は、神社本庁などをはじめとする多数の宗教団体を中心とする右翼・保守主義の団体だが、自民党など右派政党の国会・地方議員の多数も加わり、強大化してきた。これまでにも日本会議は、「国旗・国歌法」や、教育基本法改悪、教科・教科書改変、愛国主義教育をはじめとする教育の国家主義的再編などで、その組織する「国民運動」を展開してきた。さらに、その「家族=国家」観に基づく男女平等政策の圧殺、外国人政策、天皇や政府閣僚らの靖国公式参拝に向けた政治的圧力と宣伝など、いまや安倍らの政府をイデオロギー面においてもバックアップし、まさに領導するほどの巨大な存在となっているのだ。

一昨年一〇月、これらの右派を中心として「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が設立され、一千万人を目標とする署名活動が開始されている。今年一月からは、天皇の元首化、憲法九条の改憲や「国家緊急事態」の制定をはじめとして、自民党改憲草案を丸ごと実現する趣旨で、全国の神社において改憲署名を開始している。

天皇制と「国体」イデオロギーに基づく大日本帝国を否定し、「国民主権」とさまざまな基本的人権の確立、「政教分離」などの重要な政治理念が、この七〇年間に実現されてきたはずだった。しかし、国家や民間経済の破綻と脆弱化をきっかけに、こうした成果の多くを投げうち、政治権力の強大な支配に差し出し、国家による監視体制と情報の管理に自らひれ伏していく傾向が社会全体を満たしつつある。

今年予定されている国政選挙は、その結果によっては、まちがいなく軍や警察、民間右翼による暴力支配と、自治体、企業や学校、メディアを通じた新たな翼賛体制とを形成していくものとなるだろう。私たちは、こうした目前の危機的な現実に向き合い、対決していかなければならない。

2 天皇のフィリピン訪問と安倍政権

一月二六日から三〇日までの五日間、天皇・皇后夫妻は「国交正常化六〇周年」にあたっての「友好親善訪問」の名の下に、「国賓」としてフィリピンを訪問した。

出発にあたり天皇は、羽田空港で「先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。旅の終わりには、ルソン島東部のカリラヤの地で、フィリピン各地で戦没した私どもの同胞の霊を弔う碑に詣でます」と述べた。実際、二七日には歓迎式典のあと「無名戦士の墓」を訪れ、日本政府が建立した「比島戦没者の碑」に出向いたのは二九日だった。

われわれは、この「順序」に、なんとしてもフィリピンにおける日本の戦争責任の追及を「終わり」にしようという、日本のきわめて政治的な意図を見なければならない。

侵略戦争の結果、アジア太平洋戦争を通じてフィリピンではきわめて大量の死者が生み出された。圧倒的多数の民間人を含む、フィリピンの死者は一一一万人にのぼる(日本人死者も、地域別では最多の約五一万八〇〇〇人だ。兵士の多くが餓死であるという)。そういう歴史ゆえに、フィリピンは「反日感情」の強い地域であると言われてきた。明仁天皇は、皇太子時代の一九六二年にも美智子とともにフィリピンを訪問している。日本が軍政をしいたインドネシア訪問に続くものである。この時期日本資本主義は、アジアへの戦後「賠償」の名の下に、借款やODA供与による資本投下を行い、アジア再進出の足がかりとしていた。そのためにも、過去の戦争を「水に流す」セレモニーが必要であったのだ。

二七日には、マニラの大統領府近くで、元日本軍「慰安婦」の女性たちが、日本政府が事実を認めて謝罪し補償することを求めて集会を行った。抗議のプラカードには「日米のアジア太平洋軍事同盟に反対」という文言もあった。マスコミは、今回の天皇のフィリピン訪問が、戦争の死者を悼み、平和を祈る、あくまで友好親善のためのものと描き出している。しかし中国の大国化や南シナ海の海洋進出、「領土問題」などをめぐって、この地域が日米同盟においても重要な戦略拠点となっている現在、今回の天皇がフィリピンを訪れることの政治的な意味合いは、きわめて露骨なものである。日本が新たな戦争に乗り出していこうというとき、まずかつての戦争を「反省」し「平和」を求めているポーズを示すことが、不可欠の課題となっているからだ。

私たちがこの間直面してきたのは、暴走する安倍「壊憲」政権に対して、「護憲・リベラル」なアキヒト天皇制を対置し、後者を賛美し期待すらする言説の広がりであった。「安倍談話」にたいして、それに対抗的な「天皇談話」が出され、それが安倍政治への痛撃になるのだ、という観測も流れた。実際は天皇は全国戦没者追悼式において「先の大戦に対する深い反省」ということばを盛り込んだにすぎないが、それが、安倍談話より踏み込んだ内容であるとして、メディアなどで持ち上げられた。安倍をたたくために天皇の権威に頼ること自体、民主主義とはほど遠い心性であるが、何よりも天皇制は国家の一つの機関であり、天皇の「おことば」とは国家のことばであることが、繰り返し強調されなければならないだろう。憲法上の地位と歴史的にもつその権威をもって、ときの政権に正統性を与え権威づける儀礼的な側面こそが、天皇の政治的な仕事である。

確かに、象徴天皇制を柱とする戦後秩序に立脚しようとするかにみえる天皇の言動と、安倍個人のイデオロギーとの間に、事実として齟齬はあるかもしれない。けれども、そうであったとしても、それは全体としての政治のなかで調整され、結果としてそれぞれに役割を果たすものだと考えられなければならない。天皇が個人として、安倍を嫌っているかどうかということは関係ないのだ。

このことは、安倍個人の右翼的な政治的資質が、現実の政治において貫徹できていないこととも同質である。安倍靖国参拝への「失望」や、「慰安婦問題日韓合意」への「圧力」に見られるように、日本において右翼主義が全面化することへのアメリカの強い警戒と批判が存在している。対中国をにらんだアメリカのアジア戦略を円滑に進める上で、日韓の対立は得策ではない。「慰安婦」をなかったことにしたい安倍の歴史観は受け入れられるものではない。

だが同時に、グローバル化時代において、新自由主義と新国家主義を強化してきた八〇年代以降の日本の政治過程において、「私が責任者」「私が決める」という独善的な安倍政権の強権性が、時代の要請として登場したことの意味もとらえられなければならない。

ファシズムをも思わせる安倍政権の憲法破壊、政治的な暴走ぶりが、安倍個人のキャラクターに支えられていると同時に、こうした政治が全面化している歴史的段階性をふまえつつ、同じ時代性によって規定されている象徴天皇制の現在もまたあるということを、見すえていかなければならないのだ。

安倍戦争国家と象徴天皇制とを共に問う行動を続けていくなかで、これらの課題を果たしていこう。

3 国家の軍事化と社会の軍事化

欧米諸国は「イスラム国(IS)」による「フランス同時多発テロ」などによって「イスラム国(IS)」と戦争状態に入り、「9・11」以降の終わりなき「対テロ戦争」は世界戦争へ突入した。世界は第二次世界大戦以降の米国を中心とする支配秩序が崩壊しつつある。

米政府は中国の南沙諸島の軍事拠点化や朝鮮民主主義人民共和国の「水爆実験」を理由に戦略爆撃機や空母を派遣し、東アジアに介入して軍事的緊張を高めており、安倍政権は、米国の戦争挑発を支持し、日本独自の制裁も準備して戦争挑発をしている。

第一次安倍政権は、教育基本法改悪、防衛庁・省昇格法、国民投票法などを成立させ、戦争国家の基礎をかため、昨年全国の戦争法案反対の声を踏みにじって派兵恒久法(「国際平和支援法」)と一〇本の戦争法を一つにした「平和安全法制整備法」を強行成立させた。今年三月にも戦争法を施行すれば自衛隊はいつでもどこでも派遣でき米軍と共に戦争することができるようになる。さらに夏の衆参同時選挙を画策し、戦争国家の完成として「緊急事態条項」新設など改憲にむけた動きを加速させようとしている。

安倍政権の「戦争する国」への大転換は、戦争法制や沖縄の米軍・自衛隊基地の強化に止まらない。岩国基地や横田基地など在日米軍基地の強化と木更津駐屯地など自衛隊基地の飛躍的強化が図られ、2016年度の防衛予算は昨年の一・五倍、五兆円を超えた。「思いやり予算」の増額や辺野古の基地建設費用と自衛隊の武器購入のためである。

戦争国家化は、戦争法や軍隊、武器の強化・拡大に止まらず、社会の軍事化も急速にすすめられている。

安倍政権下、ますます新自由主義グローバリズムを推しすすめ、労働法制改悪など労働者の権利と生活は破壊され、増税など民衆への収奪を強め、社会保障を解体し、税金は軍事費と大企業の減税など優遇措置に振り向けている。

二〇一四年に武器輸出三原則を「防衛装備移転三原則」に変えて、武器輸出を全面的に解禁した。その結果日本社会の軍事化は急速に進んだ。三菱重工、東芝、日立製作所など最大手の軍需企業は、原発製造メーカーでもある。ミサイル部品を米国へ輸出したり、英国と兵器の共同研究など既に始まっている。そして昨年一〇月、各自衛隊が個別に担ってきた武器の開発、購入、輸出を一元的に管理する防衛装備庁を発足させ、さらに武器輸出の拡大を図っている。経団連は、武器輸出を「国家戦略として推進すべきだ」と提言し、日本独占資本は安倍政権と一体化して「死の商人」への道をつき進んでいる。

その流れは大学にも及んでいる。防衛省と大学の連携も進み、軍事技術として応用できる基礎研究の公募に、少なくとも一六大学が応じた。公然と軍事研究に手を染め、産官学の共同体制も進んでいる。

昨年二月「ODA(政府開発援助)大綱」を「開発協力大綱」に変え、他国軍への支援を「非軍事」を名目に解禁し、すでに巡視船供与を開始している。

戦争する「国民」への転換の重要な柱として教育への国家の関与が強まり、「日の丸・君が代」を拒否する教育労働者への処分攻撃は言うに及ばず、武道の導入や道徳の教科への格上げがすすめられ、愛国心教育など天皇主義・国家主義教育が強まっている。

安倍政権下、与党自民党が在京テレビ各局に「選挙時期に一層の公平中立な報道」を求める文書を送ったことに見られるようにマスコミに対する圧力は強まり、翼賛報道がすすめられている。

日米の戦争体制の重要な基地として、安倍政権は辺野古新基地建設を推進している。そのために法律を捻じ曲げ、勝手な解釈で悪用し、地方自治も踏みにじり、海上保安庁と警視庁機動隊投入など国家権力を総動員してなり振りかまわない攻撃をかけ、オール沖縄の島ぐるみの反基地闘争を解体せんとしている。

沖縄の日米による軍事基地化をもたらしたのは、天皇制国家の敗戦過程と関わっている。天皇ヒロヒトによる天皇制護持のために敗戦が必至という「近衛上奏文」を「もう一度戦果をあげてから」と一蹴し、凄惨な沖縄戦、原爆被害をもたらした。その上敗戦後に、自らと天皇制の延命のために沖縄を米軍に差し出し、日米安保をもたらしたのだ。戦後の天皇制国家と天皇ヒロヒトが準備した象徴天皇制と日米安保破棄の闘いが重要である。

さいごに

以上のように、安倍政権は法整備をはじめ、教育、産業、科学技術、財界といった、国家機構全体の軍事化をはかり、眼前の課題としての川内に次ぐ高浜原発の再稼働を押し切り、再稼働ラッシュを目論んでいる。福島原発事故の原因究明もないまま、事故の責任は国も東電もとらずじまいで、被害者へのまともな保障もなく、今後の事故対応の保障もないままの再稼働である。また、国際的には軍事協力、武器輸出、原発輸出の進行をスピードアップさせつつ、戦争法の具体的な運用としての派兵が進められるだろう。この政策の下では、人びとの生存権・人権は世界規模でさらに切り捨てられていくことはあきらかである。

一方、天皇とその一族は平和と護憲の看板を掲げつつも、この安倍政権の政策を承認させていく象徴天皇としての役割、安倍政権に対立的な言動をできるだけ小さく押しとどめるというその役割を、今後も担い続けるしかない。その役割はさらに大きなものになっていくであろう。国内における「巡行」と「皇室外交」のあらゆる局面でそれは展開され、護憲・平和天皇の空疎な言動は、これまでがそうであったように、安倍政権と対立的な構造で演出されるかもしれない。しかしそれは、社会的な対立、安倍政権への批判や抗議の声をかき消す役割を果たすためのものでしかない。天皇とその一族の言動を、私たちは今後も注意深く監視し、安倍の政策ともども批判し抗議の声をあげていきたい。

今年の大きな天皇行事は天皇・皇后のフィリピン訪問に始まった。そして例年どおり、3・11の「東日本大震災五周年追悼式」、三大天皇行事である「67回全国植樹祭(6/5、長野)」、「36回全国豊かな海づくり大会(9/10・11、山形)」、「71回国民体育大会(10/1〜11、岩手)」があり、例年の8・15「全国戦没者追悼式」がある。戦争法が制定され、新たな戦死者が想定される現在、新しい国家による戦死者追悼の形が模索されているのは間違いなく、その死を遺族と社会が受け入れていく装置としての儀礼空間が天皇を使って作りだされるだろう。問題は安倍たちの歴史認識だけではすまない時代にすでに入っているのだ。また、五月二六日・二七日には、伊勢志摩サミットが開催され、集まる各国要人との「皇室外交」も予想される。

天皇は政治利用されるために存在している。政策を円滑に進めるための「非政治的・権威的」存在として機能していることを、私たちは何度でも主張したい。そして、政策によって切り捨てられる側にある私たちはともに、政策を遂行する政権と、政権と一体のものとしてある天皇制に、NOの声をあげていくしかない。

私たちは今日、天皇制反対、「紀元節」反対の声を上げるために仲間とともにデモに出発する。右翼と警察の挑発・弾圧に負けず、歩きとおそう!

天皇神話の建国記念日はいらない! 戦争反対! 天皇のフィリピン訪問に抗議する! 声をあげよう!

二〇一六年二月一一日

2016.2.11行動【連帯アピール】第50回なくせ!建国記念の日・許すな!靖国国営化 2・11東京集会に参加された皆さんへ

第50回なくせ!建国記念の日・許すな!靖国国営化 2・11東京集会に参加された皆さん

今年、私たちは「安倍戦争国家と天皇制を問う」というテーマで、渋谷で集会とデモに取り組んでいます。

先日、天皇はフィリピンを訪問し、戦争の「死者」の「慰霊」儀式をおこないました。現地では、戦争責任を追及する、元「日本軍慰安婦」の女性たちの抗議デモもありました。100万人を超える多くの現地の人々を死に追いやった日本の戦争責任が、天皇の訪問で解消されることなどありえません。いうまでもなくフィリピンは、日米同盟の下での対中国戦略において、きわめて重要な位置をしめるものであり、そのフィリピンとの「友好親善」の強化は、新しい戦争へとつきすすむ安倍政権の戦争政策の一環です。天皇は、全体としてのその政治の一翼を、過去の戦争を反省しているポーズを示す、日本国家の外交的な役割を担っています。私たちは、今年もこういった天皇制の役割と、安倍政権の戦争政策との関係を、問い続けていきたいと考えています。

今日も皆さんが、同じ東京で、「紀元節」と安倍政権の政治に反対の声を上げ、集会とデモに取り組んでおられます。その皆さんと連帯アピールの交換ができることに、強い励ましを与えていただいています。ともに連帯して街頭で声をあげていきましょう。

2016年2月11日
安倍戦争国家と天皇制を問う 2.11反「紀元節」行動参加者一同