2018.4.28-29行動【宣言】4.28-29連続行動集会宣言

3月27日から29日にかけて、明仁・美智子は、「最後の」沖縄訪問をおこなった。3日間でのべ約2万人が歓迎のために集まったとされ、那覇の国際通りでは、自衛隊の陸・空特別編成音楽隊を先頭に、「日の丸」と提灯を掲げた奉迎パレードが行われ、4500人が参加した。今回の沖縄訪問は、天皇として6回目、皇太子時代を含めると11回目となり、今回初めて「国境の島」与那国も訪問した。

明仁の沖縄訪問について、各メディアはその「慰霊」「平和」の思いや「癒し」なるものを最大限持ち上げて報じた。〈1975年、皇太子時代に初めて沖縄を訪問したとき、ひめゆりの塔の前で火焔瓶を投げつけられたが、明仁はそれ以後も一貫して沖縄に心を寄せ続け、沖縄訪問のたびに摩文仁の戦没者墓苑で献花し遺族らと向き合い、その感情に寄り添って平和を祈り続けてきた……〉といった物語である。

今回天皇が沖縄訪問をした3月27日は、いわゆる「琉球処分」=処分官・松田道之が、武装した兵士や警官などを従えて首里城に押しかけ、廃藩置県を布達した日であった。そして、1945年に米軍が慶良間諸島に上陸し、沖縄戦が始まったのは、前日の3月26日にあたる。また今年、天皇が沖縄に着いたまさにその日に、陸上自衛隊は全国の5方面隊を一元的に指揮する司令部として、朝霞駐屯地に「陸上総隊」を発足させ、直轄部隊として「離島防衛」の専門部隊としての「水陸機動団」(日本版海兵隊)をおき、与那国に陸上自衛隊沿岸監視部隊が設置されたのも2年前の3月28日なのである。こうした一連の象徴的な日付のなかで、今回の天皇訪沖があったこと。その政治的意味合いを、私たちは批判し抜いていかなければならない。

天皇を迎えた与那国の外間町長は、「私たちは本土とは隔絶された状況にあり、文化の違いもある。そこから生まれる本土との温度差が、両陛下の与那国訪問でほとんど消えうせたように感じる」と述べた。天皇の役割とは、まず第一に、このような日本と沖縄の歴史が生み出し続けている矛盾や「違和」を消去させ、日本の沖縄支配を正当化し、住民を政治的・文化的に「再統合」していく役割である。明仁は、8月には「北海道命名150年」記念式典に参加するために北海道を訪問するが、ここでも北の離島である利尻島を訪れるという。天皇が重視しているとされる「離島の旅」とは、天皇がそこに足跡を印すことによって、この国の「版図」を再確認するためのものだ。

そして天皇の役割の第二は、遺族に「寄り添い」、「慰撫」するとされるふるまいを通して、天皇制国家の戦争・戦後責任を、観念的に清算し消去していく役割を果たすことだ。

そもそも、1945年2月に「敗戦は最早必至」として終戦工作を勧めた首相・近衛の上奏に対し、「国体護持」のために「もう一度、戦果を挙げてからでないと難しい」といって拒否し、その後の沖縄戦を招いたのが、明仁の父である裕仁だった。天皇制は明らかに沖縄戦の責任を負っている。その裕仁を「常に平和を祈っていた」存在として弁護し続けてきたのが明仁である。これらは同時に、「生前退位」を通じて、象徴天皇制の意味を積極的に再確定していくことをもくろむ、明仁の「公的行為」の総仕上げとしての意味も持つ。

そしてなによりも、与那国への陸自配備、宮古島や石垣島、沖縄本島への配備計画など、軍事的な対中国シフトを強化している現政権の志向と、天皇の沖縄訪問とが、今回はとりわけ露骨にリンクしていたと言わなければならない。

「防衛白書」などに盛り込まれた「島嶼防衛」は、離島奪還を前提とするもので、いわゆる「領土・領海」を防衛することが目的であって、そこに暮らす住民の生活や安全などもとより考えられていない。その発想は、沖縄の住民を天皇制国家の延命のための「犠牲」とした沖縄戦とまったく同質のものである。今回与那国では、町内のあちこちに、自衛隊協力会によって、「奉迎」「ご来島ありがとうございます」と書かれた横断幕が掲げられた。また天皇が乗った車は、自衛隊与那国駐屯地の隊員によって、と列で迎えられた。天皇が直接自衛隊員を鼓舞する場面が演出されたわけではないにせよ、それは天皇と軍隊との関係を、疑いなく強化した。

天皇の沖縄訪問の期間には中止されていた辺野古の基地建設工事は再開され、海を埋め立てる護岸工事が始まって1年たったいま、列をなす工事車両を阻止しようと座り込む人びとの闘いが続いている。安保を「国体」とする日本国家によって、沖縄に押しつけられていく米軍・自衛隊基地に反対する沖縄の人びとの闘いに、「本土」の私たちはどのように運動的に応えるべきか。そのことを自ら問い、基地と安保をなくすために可能なさまざまな行動に取り組んでいこう。

私たちは、3月24日に「天皇の沖縄・与那国訪問を問う」集会をもち、本日ここに「明治150年:日本(ヤマト)による沖縄差別を問う」集会をもった。そして明日4月29日には、沖縄戦をもたらし、戦後は「天皇メッセージ」を発して安保体制の成立にむけて沖縄を差し出した裕仁の責任をも問うべく、裕仁とその時代を賛美する「昭和の日」に反対するデモに取り組む。

一連の行動を通して私たちは、現在に続く日本と沖縄の関係を再度とらえ直し、それを含む近代日本150年のありよう、とりわけ、サンフランシスコ条約と日米安保体制によって規定された戦後象徴天皇制国家・日本の「平和と民主主義」の内実を批判しつつ、来年にかけての天皇「代替わり」に反対していく運動を持続していく。

2018年4月28日

天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4.28-29行動

2018.4.28-29行動【集会案内】天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4.28-29連続行動

4月28日(土)集会◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
明治150年:日本による沖縄差別を問う
——近代天皇制国家形成から日米安保体制のもとで
[お 話]湖南 通 さん(那覇市出身,日本近代法史研究)
[日 時]4月28日(土)18:00開場/18:15開始
[会 場]文京区民センター・3A(地下鉄春日駅・後楽園駅からすぐ)

4月29日(日・休)デモ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
4・29反「昭和の日」デモ
[日 時]4月29日(日)14:00集合/15:00デモ出発
[集合場所]常盤公園(中央区日本橋本石町4丁目4−3)
https://park.publicmap.jp/print/11518
*新日本橋駅(JR総武本線・銀座線・半蔵門線)より徒歩4分
*神田駅(JR山手線・銀座線)より徒歩4分
*東京駅より徒歩7分
*三越前駅(半蔵門線)より徒歩7分

★デモの集合場所・集合時間が変更になりました。ご注意下さい!
また、常盤公園は常盤橋公園とは違います。近くですが、お間違えのないように!

■武力によって大日本帝国(天皇制国家)の版図へ強制的に組み込まれ,皇民化政策のもとで植民地的支配を自ら被りながらも,侵略・植民地支配の先兵として動員され,さらに,本土防衛の「捨て石」とされ,住民の4人に1人が戦争で殺された沖縄。

■敗戦後も米国軍政下に置かれ,日本(ヤマト)の「主権回復」後も裕仁天皇のメッセージによって占領状態が継続され,「復帰」後にも米軍基地(日米安保体制)の過重な負担を押しつけ続けられている沖縄。

■日本国家は,「明治」から「昭和」にかけての戦争・植民地支配政策の推進とその破綻(敗戦)の負担も,戦後の平和憲法のもとで併存したアメリカ核軍事力に依存した日米安保体制の負担も,沖縄に押しつけ続けてきた。

■今年政府は,「明治の精神に学び,日本の強みを再認識する」という「明治150年」キャンペーンを展開している。「明治150年」とは近代天皇制の150年である。日本(ヤマト)によって沖縄との間に作り出されてきた関係は,政府の賛美とは逆に,その醜悪な構造を露わにする。この沖縄と日本(ヤマト)の関係をみすえる集会を持ちます(4月28日:沖縄デー)。また,天皇制の戦争責任・植民地支配責任を問い,歴史の改竄を許さない,反「昭和の日」デモも行います(29日:裕仁の誕生日)。ぜひ多くの方のご参加を!

主催 ●天皇「代替わり」と安保・沖縄を考える4.28-29 連続行動実行委員会

【呼びかけ団体】アジア連帯講座/研究所テオリア/戦時下の現在を考える講座/立川自衛隊監視テント村/反安保実行委員会/反天皇制運動連絡会/ピープルズプラン研究所/「日の丸・君が代」の強制反対の意思表示の会/靖国・天皇制問題情報センター/連帯社/労働運動活動者評議会

天皇の沖縄・与那国訪問反対行動【集会報告】3.24 集会報告 天皇の沖縄・与那国訪問を問う

三月二四日午後六時から見出しの集会が、東京・駒込地域文化創造館で約五〇名の結集で開催した。集会は冒頭、司会者が次のように挨拶した。

《天皇アキヒトが沖縄訪問する三月二七日は、『明治』天皇制太政官政府の命を受けた松田道之処分官が、警官一六〇名、熊本鎮台分遣隊約四〇〇名を従えて首里城に押し入り廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じた日である。与那国に行く三月二八日は二年前、陸上自衛隊・沿岸監視部隊の駐屯地が与那国に開設された日である。アキヒトの沖縄・与那国訪問は、日米両政府による辺野古新基地建設をはじめ琉球弧の軍事植民地化のための宣撫工作である。》

お話は、大仲尊さん(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)が、「自衛隊配備と天皇の与那国訪問」と題して報告した。

《私は一九四九年、与那国生まれで一五歳の時に那覇に行き、その後ヤマトに住んでいる。沖縄戦では与那国は空襲がなく、日本軍の食糧調達のためマラリア地帯であった西表や石垣に住民を強制疎開させた結果、マラリア被害で多くの人が亡くなった。被害の問題はまだ決着がついていない。

報道によれば天皇は、与那国で最初に東牧場の「与那国馬」を見る。その後複合型施設で「ヨナグニサン」(沖縄県天然記念物・世界最大級の蛾)を見る。そこは、自衛隊駐屯地から徒歩で行ける距離にある。駐屯地に行くかはわからないが自衛隊幹部と会うだろう。そして久部良小学校で郷土芸能・棒踊りを見て、漁業協同組合に行く。漁協は、保守の地盤である。その後、日本最西端の碑を訪れるらしい。

戦中有名な与那国出身の二人がいる。一人は伊波南哲、一九四三年作の与那国の詩で与那国島を「南海の防波堤與那國島」「沈まざる二十五万噸の航空母艦」と称して今も祖納にある「讃・与那國島の碑」がある。あと一人は戦死し、「軍神」とあがめられた大枡松市、大枡に続けといわれていた。その弟が元沖縄県警刑事部長であった。自衛隊配備でこのことが過去の話ではないと思える。

自衛隊が入ってきて二年。誘致派は自衛隊と家族三五〇人によって経済が活性化すると言っていたが、現実はそうなっていない。自衛隊員が迷彩服のまま空港や居酒屋に来るようになった。「菊の御紋」があることによって、天皇の権威が生まれ、村八分があるように、自衛隊がきたことによる島の分断が天皇訪問後一層深まるだろうと心配している。》

続いて天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)が、「アキヒト天皇と沖縄」と題して報告した。

《自分達が、天皇と沖縄の問題を意識するようになったのは、天皇ヒロヒトが沖縄・海邦国体(一九八七年)出席のため沖縄を訪問しようとしたことに対して反対運動を準備する過程であった。ヒロヒトは、なぜ沖縄に行かなければならないと思っていたのか。それは「国体護持」のための沖縄戦で「集団自決」を強要し、安保条約の下で売り渡した沖縄を日本国家に統合するのは自分の務めだと思ったのだ。しかし沖縄訪問は果たせなかった。

私は知花昌一さんの救援会(日の丸焼き捨て裁判)にかかわり、その過程で「ひめゆりの塔」火炎瓶闘争の知念功さんの『ひめゆりの怨念火(いにんび)』(インパクト出版会)の出版を手伝ったりした。その中でなぜ裕仁が沖縄に行けなかったのかわかった気がした。

当時、屋良県政はアキヒト皇太子の来沖を受け入れたが、組合レベルでは、「戦犯天皇の上陸を許すな」の闘争があった。火炎瓶闘争だけがとりざたされているが、それは大衆的な抗議行動の象徴的なものであったことを学んだ。ヒロヒトからアキヒトにかわっても変わることなく天皇制の問題として捉え、糾弾する視点があった。アキヒトは今回で一一回目の沖縄訪問であるが、国家・天皇制が強いた犠牲を「慰霊・追悼」することをもってその責任をあいまいにする政治である。》

フロアーから北村小夜さんが、当初から知花さんの支援を行っていたが、「日の丸」の問題だけでなく、「障害児」のことでも議論したことを話された。ピリカ全国実の仲間から「アイヌ民族抹殺の司令官だった天皇の『北海道150年』式典(八月五日)出席に反対しよう」と訴えがあった。

次に、清水早子さん(止めよう!「自衛隊配備」宮古郡民の会)からの連帯メッセージが読み上げられた。│沖縄の元海兵隊員による│性暴力殺害から2年 基地軍隊はいらない4・29集会実行委、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックから連帯アピールを受け、最後に「天皇の沖縄・与那国訪問を許さない!集会宣言」を採択し、4・28「明治150:日本による沖縄差別を問う 近代天皇制国家形成から日米安保体制のもとで」、29日デモへの結集を訴え集会を終えた。

(野村洋子)