2015.2.11行動【連帯アピール】第49回なくせ!建国記念の日・許すな!靖国国営化 2.11東京集会に参加されている皆さんへ

第49回 なくせ!建国記念の日・許すな!靖国国営化 2.11東京集会に参加されている皆さん

 

今年も、私たち2・11反「紀元節」行動は、皆さんと同じ時間帯に、東京・原宿で集会を行い、渋谷へのデモに向かいます。

今回のISによる日本人拘束事件とその結果が明らかにしたことは、安倍政権のすすめる政治が明確な戦争挑発であり、そしてその国家の目的のためには、人びとの命を差し出すことに何のためらいも持たないということでした。安倍はこの事件を奇貨として、海外派兵の拡大、九条改憲を口にしています。安倍政権の暴力性は、沖縄辺野古の新基地建設反対運動参加者に対する、人命に関わるような弾圧にも現れています。

こうした安倍政権の政治に対して、それを危惧し、反対する行動が高まってきています。今日行われる二つの集会とデモも、そうした大きな流れの中にあることを確認したいと思います。

安倍政権の戦争政策が必然的に招き寄せている、新たな戦争による死者の発生、そしてそれを追悼・顕彰することで、戦争を正当化し動員していくことが、始まろうとしています。今日の皆さんの集会がテーマとしている靖国と戦争の問題は、私たちもまた、八月に向けて、今年一年間のテーマとして追求していきたいと思います。ともにがんばりましょう。

2015年2月11日

敗戦70年と象徴天皇制の70年を撃つ2・11反「紀元節」行動

2015.2.11行動【基調】敗戦70年と象徴天皇制の70年を撃つ2・11反「紀元節」行動集会基調

1 安倍政権と敗戦七〇年

今年も天皇神話に基づく「建国記念の日」(「紀元節」)を、天皇制に反対する行動の幕開けとして迎えた。一方、これも例年どおりだが、神社本庁や「日本会議」など「日本の建国を祝う会」も「奉祝式典」を行った。この「国民の祝日」の制定は一九六六年(施行一九六七年)のことで、敗戦後初の、神権天皇制的な価値を法的に整備したものだった。政府はその後も「元号」「日の丸・君が代」の法制化など、一貫して天皇制強化をはかってきている。

日本の戦後が、植民地支配と侵略戦争の最高責任者であった天皇を免責し、象徴天皇制として始まったこと。あるいは戦争・戦後責任の基本である賠償すらまともに果たさず、そればかりか戦争特需で経済大国の道をひらいた日本の「戦後復興」について。そして、米国の軍事力の傘下に入ることを自ら選択し、沖縄を売り渡し、A級戦犯を総理に据えつつ、米軍従属の軍事・原発大国となった現在まで続く戦後史。敗戦七〇年は、こういったところから始まるはずである。

しかし、敗戦七〇年、日韓条約締結から五〇年でもある今年を大きな節目(チャンス)と捉える政府は、侵略戦争・植民地支配に対する責任は決済ズミとし、天皇とマスコミを最大限利用しつつ、政府にとって不都合なことには蓋をしてしまい、さらなる戦争国家へとその動きを加速させるであろう。

二〇一四年一二月、第三次安倍政権が最低の投票率で成立し、安倍は首相就任早々、改憲への意欲を表明した。実際は、集団的自衛権行使の容認や、武器輸出三原則にとって代わる「防衛装備移転三原則」導入等によって、すでに九条は事実上骨抜きの状態となっている。教育現場では、道徳教育、教科書検定、教育委員会等々、政府の意向通りの再編が繰り返され、教科書から「従軍慰安婦」「強制連行」という言葉が削除される事態もさらに進行している。まさに「戦争は教室から始まる」という事態にある。

河野・村山談話を踏襲「する・しない」で二転三転を繰り返している、今年八月に出すという「談話」についても、安倍は今年に入り、踏襲ではなく「安倍政権としてこの七〇年をどう考えているかという観点から出したい」との見解を述べた。もともと河野談話を覆すための談話であり、本音はいずれも「継承しない」なのだ。安倍の言う「未来志向」の談話とは、侵略戦争への無反省と「積極的平和主義」という名の新たな戦争のためのものでしかない。厳しい監視と抗議の準備を!

また、『朝日新聞』による「吉田証言」取り消しと謝罪報道を、安倍たちは「従軍慰安婦」問題そのものをなきものとしようとするための言論づくりに利用し尽した。世界では通用しないこれらの言論も、国内メディアで大手を振っている。言論統制の手法はメディアの人事にまで介入し、NHKはいまや政府広報機関として位置づけ直され、すでにその報道に大きな影響が現れている。民放においても、その幹部と定期的に会食を繰り返すなど、メディアへの介入、言論統制と、ファシズム国家への暴走が続いている。

二〇一三年一二月の安倍靖国参拝は国内外で大きな問題となったが、その後も、一〇〇名を超える国会議員や閣僚の参拝は引き続き行われ、安倍本人も玉串料や真榊の奉納を続けている。侵略戦争や植民地支配の歴史と、その歴史に対する謝罪や補償の正当性について教えないばかりか、歴史や事実の捏造・隠蔽に疑問を挟ませない、上意下達方式の教育が横行するのは、侵略戦争肯定の靖国を信奉する国家主義者たちが議会の大半を占め、その体制を日本社会が許していることの結果でしかない。

沖縄においては、衆院選直前、沖縄辺野古基地建設の是非をめぐる沖縄県知事選が闘われ、この選挙でも基地建設反対派が勝利し、「基地はいらない」の民意が示された。しかし、第三次安倍政権成立と同時に、政府は基地建設の強行に出た。日本政府の暴挙と闘う現地の人々からは報告や呼びかけが発信されるが、本土のメディアからそれらを得ることはできない。このメディアのありようは、安倍政権下の影響もさることながら、再度の安倍政権を作りだし、沖縄への基地押しつけの歴史と現実に無関心な社会の反映でもある。このことを忘れるわけにはいかない。

福島原発事故から四年、政府は被災者を切り捨て、犯罪的な原発輸出と再稼働に力を注ぎ続けている。あるいは防衛費を増やし福祉予算を削減した。富裕層のための経済政策でさらに格差を拡大した。そして差別・排外主義をあおり、反テロを合い言葉に「強い国」=戦争国家をめざす。国家主義的な性格をより露骨に出してきた安倍政権と「戦後七〇年」の問題は限りなく大きい。不十分すぎるとはいえ、曲がりなりにも共有されてきた戦後的「平和と民主主義」「人権尊重」という価値を、安倍の目指す国家は一掃する。その安倍政権とそれを支える象徴天皇システム。これらとどう闘っていくのか。ともに考え、声を上げていきたい。

2 日米安保の強化、戦争国家化と沖縄の反基地闘争

安倍首相が銀行や商社、軍事産業など四六社の幹部を引きつれてエジプト、ヨルダン、イスラエルなど中東歴訪を行った。その最中にイスラム国から拘束中の日本人二名と引き換えに二億ドルを要求された。それは偶然ではなく、安倍首相が一月一七日、訪問中のエジプトで「イスラム国対策」のため、イラクやレバノンに二億ドルの支援を表明したからである。難民支援、人道支援と称しているが、昨年から米国主導の有志連合で行っているイスラム国掃討作戦と一体の援助である。それは、安倍首相の「イスラム国の驚異を食い止めるため」との発言で明らかである。拘束されている日本人がいながら、イスラム国を挑発したのだ。さらにイスラエル訪問時にはイスラエルと日本の国旗の前でネタニヤフ首相と連携強化を誓ったのである。まさにイスラム国が言う「イスラム国討伐の十字軍に参加しようとしている」のである。しかし、大手マスコミはほとんどそれを報道せず、安倍首相が人命救助のために総力を挙げているかのような演出に手をかした。また、安倍政権の対応を批判した共産党議員のブログは市民からの批判で炎上し、共産党党首は「政府が全力を挙げて取り組んでいる最中だ」と議員を批判した。これを見ても明らかなように「人質事件」以降、一層の挙国一致、翼賛体制が強化されている。安倍政権は「テロには屈しない」との発言を繰り返し、結局人質二名は殺害されるに至った。イスラム国は日本が「勝ち目のない戦いに加わるという無謀な決断」をしたため人質を殺害し、今後も日本人を殺害すると宣言した。そもそも今回の「人質事件」と人質の殺害に至ったのは、安倍政権の「積極的平和主義」の帰結であり、安倍首相にこそ責任がある。戦争国家とはまさに他国、市民からこのような怨嗟や攻撃をもたらすものであり、死者が日常化し、そのたびに戦争国家化、市民の意識変革を含めてすすめられていく。安倍政権は、自衛隊の外国での邦人救出を可能とする法整備や治安管理強化の名目に「事件」を利用しようとしている。

敗戦が必至となった一九四五年二月、近衛文麿は、早期講和を天皇に上奏したが天皇ヒロヒトの「もう一度戦果をあげてからでないと……」との発言によって、凄惨な地上戦である沖縄戦と広島、長崎への原爆投下を引き出し、今も続く甚大な住民被害をもたらした。そして戦後は、自身と天皇制の延命のために「天皇メッセージ」で沖縄を米国に売り渡し、米軍駐留を継続する日米安保条約締結に積極的に動いた。

自民党政権は戦後日本の国体と言える象徴天皇制と日米安保の強化を図ってきた。安倍政権は、中国や朝鮮民主主義人民共和国の脅威を煽りながらより一層日米安保を強化し、日本を「戦争する国」へと転換してきた。

二〇一三年、戦争体制に不可欠な「日本版NSC設置法」と「特定秘密保護法」を強行採決し、防衛大綱などで、より実践的で陸海空三自衛隊が連携する機動力のある攻撃的な自衛隊に改変することを決めた。そして昨年七月一日、九条改憲に等しい集団的自衛権行使容認を国会議論すらせず、閣議決定をするというブルジョア民主主義すら踏みにじる暴挙を行った。

二〇一五年度防衛予算案はその具体化である。四兆九八〇〇億円と過去最大で、一月九日の一四年度補正予算のうち、一五年度に計画していた事業の前倒し分九五〇億円を加えると五兆円の大台を超える。自衛隊を離島「奪還」など攻撃的部隊に改変するための部隊改変と武器などの購入のためである。同様の目的で海上保安庁の予算も前年度比五割増が要求されている。辺野古新基地建設費も前年度当初予算比で八一倍の一七三六億円が計上された。

そしてヤマトにおける米軍の訓練、基地強化も進められている。オスプレイは沖縄だけでなく全土で自治体への事前通告なしで訓練が行われており、岩国基地は普天間基地からのKC130空中空油機が移駐され、今後厚木基地の空母艦載機の転入が計画されるなど数年後には東アジア最大の米軍基地にされようとしている。さらに一二月には米軍経ヶ岬通信所にはXバンドレーダー(高性能早期警戒レーダー)の運用が開始された。そして、今夏にも米原子力潜水艦ロナルド・レーガンが米海軍横須賀基地に配備されようとしている。日本全土が日米同盟の前線基地となろうとしている。

それと一体に経済社会体制も戦争国家に対応するものに転換されている。安倍首相の独裁権力(官僚機構)がつくり出され、大手マスコミ幹部との会食を頻繁に行うなどマスコミの政権翼賛化が進んでいる。既に述べているように、侵略戦争を肯定する歴史観に基づいた教育、教科書へと国家が強権的に介入し、国家にとって役に立たない者は自ら死を選択させる「尊厳死」法制化が目論まれるなど価値観の大転換が行われている。

二〇一四年「武器輸出三原則」を「防衛装備品移転三原則」と言い換えて、武器輸出解禁と武器の国際共同開発を容易にし、戦争、武器で儲ける「死の商人」へと日本の軍事産業を後押ししている。「宇宙基本法」や「原子力基本法」に安全保障という文言が入れられ、軍事利用に道をひらいた。その目的は核燃料サイクル維持、つまり核武装のため以外にはあり得ない。近く成立が目論まれているODA大綱(開発協力大綱)は他国軍への支援を可能にしようとしている。昨年六月、パリで行われた陸上兵器の国際展示会「ユーロサトリ」に、日本が初めてブースを設け、軍事産業一三社が参加するまでになっている。

そうした安倍政権の戦争国家化と真っ向から対決しているのは沖縄民衆である。昨年の名護市長選、名護市議選、沖縄県知事選、衆議院選で辺野古新基地建設反対派が当選したにも関わらず、普天間基地の辺野古移設が「唯一の解決策」「粛々とすすめたい」と県知事選直後に海底ボーリング調査を再開しようとするなど基地建設反対の沖縄の民意を切り捨てた。さらに翁長県知事の面会要請を安倍首相も菅官房長官も拒否し、沖縄振興策を減額するという露骨な締め付けを行っている。沖縄民衆は安倍首相が海保や警察を恫喝して強権的、暴力的な基地建設をすすめる姿勢にたいして、沖縄を植民地と扱う「宗主国」のやり方だと反ヤマト意識を高揚させ、基地建設反対闘争への結集を強めている。東村高江のオスプレイパッド建設に反対する住民を排除するために日米共同使用の路側帯を米軍専用に区域にするなど強行姿勢は辺野古にとどまらない。安倍政権の工事強行は沖縄民衆の結びつきを強め、基地建設阻止の闘いを強めることにしかならない。与那国でも「自衛隊基地建設」を問う住民投票が二月に行われる。

安倍政権が総力をかける日米安保を基本にする戦争体制、沖縄のさらなる前線基地化を止めているのは沖縄民衆の闘いである。問われているのはヤマトの労働者、市民の反戦、反天皇制に貫かれた民主主義であり、日米安保破棄、日米ガイドライン改定阻止、辺野古新基地建設阻止の闘いである。

3 安倍政権と天皇制

すでに述べてきたように、安倍政権による「戦後民主主義国家」の枠組の根底からの解体、とりわけその強権的な政治手法に対して、人びとの間で危機感が大きく広がり、安倍批判の声が高まっている。しかし他方で、安倍と比較して「天皇のリベラルさ」が強調され、それに期待を寄せる言論が組織されていることに、われわれは批判的に注目せざるを得ない。

今年の年頭に当たり、天皇は宮内庁を通じて感想を公表した。そこでは「終戦から七〇年という節目の年……この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」と述べていた。これに対したとえば、元朝日新聞のコラムニスト・早野透は、それは「日本国民よ、満州事変から敗戦まで一五年間の戦争の歴史を十分に学んでいないのではないか、ここでもう一度、日本のあり方がこれでいいのかどうか考えてみようよ、と呼び掛けているように思える」「昨今の日本政治に平和国家日本のかげりを感じとって、日本のあり方を考えることが「今、極めて大切なこと」とあえて言及したのではないか。これから戦争をいささかでも肯定するような動きが起きないか、心配しておられるのではないか」と書いている。

同様の発言が、この間多くの言論人によってなされている。これら天皇発言のなかに、個人としての天皇の気持ちがどれほど反映されているかは知らないが、安倍の政治路線と齟齬を来しているとみえる部分も確かにあるだろう。しかしそれはむしろ、天皇の発言であることによって、現実の支配体制を別の面から支える政治的な機能を果すものであることが、もっと指摘されなければならない。

現在の天皇の大きな「仕事」のひとつとしてあるのは、戦争の被害者、さまざまな災害や事故の被害者や死者に「寄り添い」、被害者を「慰撫」したり「追悼」してみせたりすることだ。しかし、8・15「全国戦没者追悼式」は、日本国家の戦争責任を覆い隠し、戦争の死者を国家による被害者ではなく戦後日本の「平和の礎」として賛美するものである。とりわけ、日本が「戦争ができる国家」から「戦争をする国家」へと全面的な転換を果そうとしている現在、新たな「戦死者」が生みだされる可能性はきわめて高くなっている。靖国神社や無宗教の国立追悼施設をめぐる論議もさまざまにあるが、戦争の死者を、殺し殺させる国家の側がいかに意味づけ取り込んでいくかが、鋭く問われてこざるを得ない。

また、3・11「東日本大震災追悼式典」は、多くの震災の死者を盾にして、この日を「国策」としての原発政策の帰結としてあった原発事故と切り離し、国家の原発事故責任を覆い隠す政府のイベントである。そこで謳い上げられる「復興」とは、被災者を切り捨て、原発再稼働さえすすめるためのものでしかない。天皇は、こうした「国民的」な儀式に不可欠の道具立てとして、その役割を果しているのだ。

現在、安倍政権が進めようとしている労働法制改悪、社会保障切り捨て、法人税切り下げ・消費税増税、インフレ政策など、新自由主義的「アベノミクス」は、一部富裕層に富をますます偏在させ、他方に貧困を蓄積させて社会的格差をいっそう拡大していく政策である。こうした中で、社会的統合に亀裂が生じていることは明らかである。ここで機能としての象徴天皇制に期待されている役割とは、こうした亀裂を、観念的に修復していくことである。それは、「国民統合の象徴」とされる立場からいっても明らかなことである。

しかし、天皇制というのは日本国家におけるひとつの制度である。日本国家がもたらし、もたらそうとしている被害や生きづらさを、日本国家が「被害者に寄り添う」という姿で慰撫しようとすることは欺瞞である。日本国家がなすべきことは第一に被害補償であり、そうした事態を生みだす政策を変えていくことでしかない。

「国民統合の象徴」であり続ける天皇は、時どきの日本国家のあり方に対して、その立場から正統性を与え続けている制度だ。しかし、天皇は現実政治から超越しているかのように演出され続け、そこにはまるで「国家を超える別の共同性」が体現されているかのようである。

天皇制は主に国家儀礼的な面で、時の政権とその政治的な役割を分担してきているのである。いま、天皇と安倍との間に齟齬があったとしても、そういう同じ基盤の上にあるのだ。

国家の「イデオロギー装置」であり、ナショナリズムの源泉でもある現代天皇制の役割を見据え、その政治的な行動を批判する運動を進めていこう。

おわりに

反天皇制運動の課題に限っても、われわれは、2・11以降もさまざまなかたちで、取り組むべき課題と向き合うことになる。

まず、三月一一日、この日を「未曾有の国難の日」と位置づける「東日本大震災の日」制定に向けた国会審議の中で、「東日本大震災追悼式典」が行なわれようとしている。再稼働反対、住民切り捨て・ゼネコン主導の「復興」反対、国家の原発推進政策責任を追及する反原発の闘いと結びついた、式典批判の声をあげよう。

四月八日・九日には、天皇はパラオを訪問し、アジア太平洋戦争の激戦地のペリリュー島で「戦没者慰霊」が行なわれる。これは、「戦後七〇年」の節目における天皇の「慰霊・追悼」行事の、一つの目玉となるだろう。国家による「慰霊・追悼」が、戦争責任を回避するロジックとなってしまう構造を、問いただしていきたい。引き続き、四月二八日には、いわゆる「沖縄デー」を、近代天皇制国家による「琉球処分」以来、沖縄戦と米軍支配を経て、現在に到る日本の沖縄への植民地主義的支配を問い返す日として、二九日の「昭和の日」に反対する行動と一連のものとして取り組んでいきたい。

いわゆる皇室「三大行事」についても、五月一七日石川全国植樹祭が、九月二六日〜一〇月六日和歌山国体、一〇月二四日、二五日富山全国豊かな海づくり大会が開かれる予定だ。これは、各地方への天皇・皇族の「行幸啓」行事であり、それぞれの地域でさまざまな人権侵害を引き起こすものである。天皇の行動が必然的に引き起こすこうした人権侵害に反対する声を上げていきたい。
そして、八月一五日の反靖国・「全国戦没者追悼式」反対行動。とりわけ今年は、敗戦七〇年をめぐる言論状況のなかで、いわゆる「安倍談話」をめぐってもすでにあらわれているように、植民地支配と戦争の責任、歴史認識が鋭く問われる年となる。それは同時に、戦後象徴天皇制の総括とも連動して、次なる「Xデー」に向けた平成天皇制の「総仕上げ」のキャンペーンともなるはずだ。

反天皇制運動の立場から、さまざまな意思表示を続けていこう。

二〇一五年二月一一日